Sunday, May 7, 2017

おいしい話 No. 119「The man of stubborn」


世の中には、新しいテクノロジーの商品が出ると、発売と同時に手に入れる人々がいる。ラップトップコンピューターや、iPod、スマートフォン、タブレットに、ブルーレイやフラットスクリーンのテレビ。この間初めてコマーシャルを見たと思ったら、もう音楽は全部iPodに収めている、とか 携帯はスマホでなきゃ不便とか、映画はブルーレイでしか見ないとか、最新機能を持つ商品をすぐさま「欲しい!」と思い、簡単に受け入られるタイプの人達。発売したては値段も高いが、早く欲しい、という気持ちに駆り立てられ、清水の舞台から平気で飛び降りれる人達。
そういう人達と相反するところに立つのが、うちのハビー。新しいテクノロジーを素直に受け入れられない人。
この過去10年ほどの間で次々と発売されてきた様々な機能の商品達を、うちのハビーはことごとく否定してきた。ラップトップコンピューターも、デスクトップのコンピューターがあるからいい。iPodも CDをかけて聴けばいい。スマートフォンもフリップ型の携帯が一番機能が優れている。(それより以前は、携帯を持つ事自体を拒否していた。)タブレットや、ブルーレイプレーヤーや、フラットスクリーンのテレビなんか、必要性を全く見出せない。といった具合で、いちいちケチが入る。「ケッ」てな調子で電気屋に群がる人達を見下していた。
私はなんなんだろうこのオヤジは、と思っていた。こういう種類、何て言う?
やっぱりカメラはフィルムが良いと言う「アナログ派」か? いや、それはちょっと響きが良すぎる。ハビーの場合はもっと屈折している。あまのじゃくと言うか、ひねくれているというか、要するに頑固者なのである。人が良いという物を簡単に受け入れられないという性格。流行に、皆と同じように飛びつけない、頑固オヤジなのである。
ただハビーの頑固オヤジが頑固オヤジらしからぬところは、これらの商品を現在全部持っている、という事実なのである。ものすごく中途半端な頑固オヤジ、貫き通す強さはない。
仕事で必要だからしょうがない、という名目で、拒否していた携帯を買った。あんなに否定していたスマートフォンを今では一秒たりとも離せない状態で持っている。(世間で一番人気のiPhoneは引き続き拒否中。)仕事上ラップトップコンピューター無しでは生活できなくて、タブレットも器材の遠隔操作に便利だとロケに出かける時使っているし。

数年前、ある日ハビーが「しょうがないけど、ブルーレイプレーヤーが必要だ」と言い出した。これも仕事で、ブルーレイ用に仕上げたDVDがちゃんとブルーレイプレーヤーで再生できるかの確認作業の為だと言う。
「うちのテレビでブルーレイが観れるの?」
真空管の付いた分厚いテレビを指さす私。
「このテレビでブルーレイのクオリティを見る事はできないけど、再生できればいいんだよ。」と言う。新しいブルーレイプレーヤーを買い、10年前に買ったテレビに接続し、普通のDVDと共にブルーレイの映画を観ていた私達。

そして1週間ほど前、ハビーがついにこう言い始めた。「HDのテレビにしないと、今やっている仕事のクオリティーチェックができない。」
「ハッ! フラットスクリーンのテレビを買うの私達!!?」
「しょうがないけどね、仕事で必要だから。」
こんな風に、頑固で抵抗している期間が5年から10年。利点は、やっと購入を決心した時には、商品の価格が随分下がっている、という事。

5年前に買ったブルーレイプレーヤー。やっとその機能を確認できる日が来た。早速Best Buyに走る。(買うと決めたら行動は早いヤツ。)ウエブサイトで出ていた目玉商品を買ってくる。古いテレビをどかし、新品のフラットスクリーンをテレビ台に置く。ご満悦な表情のハビー。仕事の為にマスターしたブルーレイDVDを再生する。
「オッケー、バッチリ。」
仕事用に購入した割には、妙に嬉しそうではないか。

その翌日、家に帰るとテレビゲームをしているハビーがいた。2年ほど前に、テクノロジーやコンピューターに強い友人が、任天堂を含む数百というゲームをマッチ箱ほど小さい箱に搭載し、テレビにUSBのケーブルを接続するだけで、簡単にゲームが楽しめるというゲーム機を作ってくれていた。ハビーはそれを新しいテレビに接続していた。
「やーっとこれが使える日が来たよ。」
単調で間の抜けた音楽が画面から流れる。プレイしているのは1990年代の古いゲーム。「やっぱゲームはこの時期のが一番だねー。」

なぜ最初から否定しないで、普通に素直に受け入れらないのだろう、このオヤジは。
何から何まで。結局最後は全部折れてるくせに。
こういう人なんて言う? こんなハビーにつける名前、募集したい。




Posted on 夕焼け新聞 2017年4月号




おいしい話 No. 118 「心のパワー」


昨夜友人が産経ニュースの記事を送って来た。それは筑波大学名誉教授が発表する脳の研究に関する記事だった。
「脳の働きを制御するのは心」と太字で書かれている。人間の身体を統括する全ての司令塔は脳にあると考えられていたが、そうではなかった。その脳の動きを操っているのは自分の心であり、意識だ、と述べている。「脳はテレビやラジオの受信機のようなものであり、心や意識が真の創造者である。脳は私たちが『できる』と思っていることしかできない。逆にいえば、『できない』と考えていることはできないのだ。」
この節を読んで、色んな言葉のピースが頭を駆け巡った。新しい研究結果に対するお驚きよりも、むしろ「やっぱし、そうなんですね、、、」っていう思いだった。
昔の人の諺には、正当性があっていつも感心するのだけど、「病は気から」も、そういう事なんだよね。この間受けたSpiritual readingでも、「事故やアクシデントはありませえん。病気も、自分で選んでいるんです」って、言われたし。NIKEの「You Can Do It!」も科学的根拠の元生まれたキャッチコピーなのかもしれいない。アメリカ人がよく、出来もしないのに(と私は思っている)なんでも「I can do it」と軽く言う事をうざく思っていたけど、実は非常に必要な態度であり、アホの子の発言ではなかったようだ。でもあのアメリカ人のポジティブシンキングのルーツは何なんでしょうね。
登校拒否の子が 朝になるとお腹が痛くなるとか、本当はTic Tacなのに、頭痛に良く効く薬と言って飲ませたら、痛みがなくなったとか、火事場の馬鹿力というか、もうやるっきゃないという状況に追いやられると、人間って無理と思ってた事ができたり。アスリートが自分が勝つというイメージトレーニングをするのも、ブリットニー スピアースが10歳の時から 自分は歌手になると信じていた事も。筑波大学名誉教授の言っている事、Make scenesです教授!と思った。

そして、人間のDNAは書き換え可能な設計図であり、生命を支配する絶対的なプログラミングではないと述べている。これには驚いた。DNAが人間の個々の生態を確定していると思われていたのに、これも真の支配者である「人間の意識」によって書き換え可能なんて。更に記事は心身医療のデイーパック・チョプラ博士の言葉も述べている。「慢性病は意識がつくり出している。怒りや恨みや憎しみなどの感情を持つと、それが悪い遺伝子を活発にしてしまい、ガンや心臓病の原因となる炎症を起こす。一方、喜びや愛、他人の成功を喜ぶという感情を持つと、良い遺伝子が活発になり、身体は病気にかかりにくくなって、肉体年齢も若返る。」つまりは、心の思いや意識を使って、脳を操らなければならない。
そういえば Spiritual readingでも、「Fear」は元々人間の観念には無かった「Poverty Consciousness」で、人間が存続する歴史の中で「学んだBehavior」なんですと言われた。そして、Fearが出て来たら「Delete」して下さい、と。
全ては心の持ちよう、と言うけれど、本当に人は心の持ちようを変える事によって、遺伝子のオンとオフを切り替えれるなんて。なんだか とても、単純で簡単な響き、、、。

そしてまた別のピースが頭を過った。昔従妹が、「脳ってね、辛い状況の中でも顔に笑顔を作ったら、あ 幸せなんや、て思って、どんどん幸せのホルモンを出すから、作り笑いから 本当に幸せな気持ちになるんやって。だから今日から無理やりでも笑顔を作っていくで!」と言っていたのを思い出した。どんどん、脳という物が 単純な細胞機能に見えて来る。

じゃあ、この人間の「心の思い」とか「意識」とか、どこで発生しているの?ていう話になるよね。このコントロールの効かない、怒りとか嫉妬とか悲しみとか苦しみとか。そういう感情の根源は何? 感情の湧水の発生地は何処? それが、人間という生物の不思議さか。どうやって この激しく溢れ出るネガティブな感情を、いかに意識を持ってオフにし、ポジティブシンキングに切り替えるか。それがカギのようだ。

この記事は最後にこう綴っている。「一般に、頭がいい人と悪い人がいるといわれているが、脳そのものにはいい、悪いの区別はない。使い方によって、良くなったり悪くなったりする。脳を上手に使えば、思いは必ず実現する。」
なんと希望のある見解。豚もおだてりゃ木に登る、という事ではないか!

とにかく人間は心のパワーを持っている。だとしたら、これはもう大いにに使うしかないでしょ。賢く使って、夢を叶え、長生きする。実験してみる価値はあるよね。




Posted on 夕焼け新聞 2017年3月号





おいしい話 No. 117 「森山直太朗」


日本に帰った元ルームメイトと 年明けにEmailのやり取りをしていたら、「どうでも良い話なんだけど、、」と 主題を変えて別のメールを送ってきた。去年 森山直太朗の歌を直で聴く機会があったようで、「その時の歌に感動し、それ以来 すっかりファンになっちゃって」と 森山直太朗のアルバム発売記念に子供を連れて行った写真が張り付けていた。「今年の冬休みは、ポートランドに行ってたってツイッターに書いてあったよ!」と、嬉しそうに報告してくれた。
森山直太朗。なんか聞いた事あるなあ。でも写真を見てもピンとこない。森山良子の息子だったっけ? 歌は聴いた事ないけど、森山良子の息子だったら、爽やかな感じなんだろうなあ。ま、森山良子の歌も真面に聴いた事もないけど。なんて言っていると、「今度送ってあげるよ!」と言ってくれた。好きかどうかわからないけど、是非聞いてみて!と。

その会話から5日後、うちの郵便受けに 彼女からの封筒が入っていた。「早っ」。
送られてきたのは「森山直太朗 大傑作撰」と、大題の付いたアルバムだった。なんか、曲を聴くまでもなく、もうこのジャケットのデザインから日本を感じる。

その夜、ダウンタウンでご飯を食べた帰りの車の中で かけてみた。ステレオから流れるメロディーとその歌声は、昔のフォークソング的な、優しくソフトで懐かしい音色だった。なんだか日本の道路を走っているような錯覚が起こる。お母さんの血をそのまんま受け継いだかのような 高く伸びる声。今時なのか、懐メロなのか、昭和と平成の間を行ったり来たりするような、中性的だけど直球な詩とサウンド。そんな風に思っていると、懐かしい曲のイントロがはじまった。「あ」一瞬にして、昭和に引き戻された。「若者たち」

「君の行く道は 果てしなく遠い
だのになぜ 歯をくしばり
君は行くのか そんなにしてまで」

じわじわと目頭が熱くなる。胸が込み上げる。そして 涙が流れ出す。
自然と口が開き、一緒に歌い始めた。

「君の行く道は 希望へと続く
窓にまた 陽がのぼるとき
若者はまた 歩きはじめる」

泣き面に、ぶれぶれの震える声で 森山遼太郎と合唱した。
一体何が起こっているの?どういう現象コレ??
さっき飲んだワインのせいか。涙が出てしょうがない。

自分の「大傑作撰」にこの曲を入れるとは、なんとも渋いではないか。やっぱ昭和生まれか。家に帰った後、もう一度、友達が送ってくれた写真を開いてみる。
15周年記念オールタイムベストアルバム「大傑作撰」発売記念、森山直太朗 感謝状贈呈式」と書かれたサインが金の屏風の上に掲げられ、その屏風の前に並ぶ森山君と、私の友達とその息子。森山君が感謝状なるものを息子に手渡している。記念アルバムのCDを買ってくれたファンへ、ってことなんだろう。なんか、売れている人のわりには、地味なアナログ感が漂う。
しかし こう言っちゃ失礼だが、顔と歌声が一致しない。本当に失礼だが このお顔からあの繊細な声が?と思ってしまう。
まだまだまじまじと観察する私。白いシャツにベストを羽織り、数珠のネックレス。七分丈のパンツに 片足アンクレットに サンダルシューズ。なんと彼の白いシャツの裾からは、ほどけた糸がバラバラと垂れている。まるで何年も着倒したシャツの如く。男前のお兄さんなんだけど、私の腹の笑い虫がムズムズしてくる。

見るんじゃなかったかなー。アタシのさっきの涙は何処へ。
ポートランドに来てたって言ってたけど、もう絶対わからないと思う。というか、ポートランドに馴染み過ぎてしまうんじゃないかと思う。
「もうひとつ!」と友達から追加のメールが来た。
「この前ポートランドに行ったのは、KINFORKっていう雑誌が好きで行ったみたいだよー。」なんじゃらほい。
是非次回ポートランドを訪れる時は、PSUのキャンパスでゲリラコンサートをしたり、Mississippi Studio辺りでライブをしてほしいものだ。うちの近所の教会を借りて ギター1本の弾き語りでもいい。
色々言いたい事言ってる私だけど、私の友達のように、直に歌を聴いたら、本当にハマってしまうのかもしれない。

まだ車のステレオに入っているCD。車を走らせる度に、日本にワープする。時にウルウルしながら 思いに浸る。ちょっとしたエスケープの空間ができる。今の自分や、日本で育ち、暮らした昔の自分を思い出す、私独りの空間。そういう空間を作り出す「森山直太朗 大傑作撰」、(車)一台に一枚かも。

「直太朗を共有できて嬉しいよ!」by 私の友達。




Posted on 夕焼け新聞 2017年2月号