子供の頃、うちの家庭で出る食事は きゅうりの酢和えや山芋のおろし、ナスや大根の煮物、鰤の煮付けや 鯵の塩焼きなど、地味な一品ばかりで、友達のハイカラ料理を作る若いハイカラママが羨ましかった。ハンバーグステーキや魚のムニエルなどの「洋風料理」は 小学校や中学校の家庭科の時間に習った私が台所に立って再現しない限り 食卓に見られることはなかった。
自分が作らないと 精進料理みたいなものしか食べられない、と悟った私は 料理の本を買い込み、美味しそうなホワイトソースがかかったチキンや、チーズがとろけているパスタ料理などの写真のページを広げては、じっくりその作り方を学んだ。(今でも私は仕上がり写真のない料理の本を参考にすることができない。)
忙しい母親を助けるという前提で、お金を貰い、スーパーに買い物に行き、幼い私の(といってもすでに中学生)洋風料理が出る家庭実現計画が始まった。
自分にとって未知の世界である味を、本に書かれている手順と共に作り、限りなく写真に近い見た目に仕上げていく、というプロセスは失敗を繰り替えしながらも 継続されていった。お陰で基本調味料「さ、し、す、せ、そ」以外のカタカナ系調味料やスパイスの種類も台所のキャビネットの中に並び始め、それらをどういう料理にどれくらい使う、という知識も増えていった。高校を卒業するころには、得意料理は そのシミだらけでぼろぼろになった料理の本を参考にすることもなく、作れるようになった。
毎日料理をしていると、いちいち計量カップで計らなくても「目安」で味付けができるようになってくる。うちの母親が酢の物や煮物を作る時と同じで、長年の腕と舌が味を利き分けるのだ。私の場合、いつしか料理の本からも遠ざかり、年を経る毎に、そして忙しさのせいで料理が面倒くさい、という感覚になる度に、料理をする頻度も減り、「目安」が「適当」料理に変わっていった。
あんなに洋食に憧れていた幼少の頃であったが、ほとんど洋食に囲まれている今は、あっさりとした和食、あの母親の素朴なシンプル料理が恋しくなってきた。(もしくは歳のせい?) 今でこそオーガニック野菜とかケージフリー卵とか取り上げられているけれども、当時は当たり前に八百屋に並べられていたもんだ。母親の家庭料理は実はとっても健康的な料理だったのだのに、私の洋風家庭実現計画がハイコレステロールの原因を作り出していたようだ。
先日ハビーの両親が食事にやって来る事になった時、ウン十年ぶりに料理の本を取り出してみた。日本人の私から「Authentic」な日本食を自然に期待する彼らだったが、日本食から離れていた私は ものすごいプレッシャーを感じ、料理の本を見ないと日本人としての信頼感を失いかねないという恐れがあった。
色あせた料理の本の 如何にも古い写真をめくりながら品目を選び、味醂大さじ何倍、お醤油半カップなどときっちり書き留めていった。
そのディナーの準備をきっかけに 私の料理への情熱に再度火がついた。今度は日本食に対する情熱。母親の素朴な和食を思わせる料理、生まれ育った家庭料理、私の原点に戻る料理。
料理の本がインターネットのページへと移行していった現在、ラップトップをキッチンのカウンターにおいて、スクロールダウンしながら、計量分量や手順を参考にしていく。ちゃんと計るとなるほど 確かにおいしい。そして 気のせいか、なにやら体の調子も最近良いではないか。
こうやって またいつか 和食料理も馴れてくると、味覚と個性が加わって、私なりの「目安」で作る家庭料理ができあがっていくのかもしれないな。そして それが、今から私が作る、私の家庭の味になっていくんだね。
Kiki
Posted on 夕焼け新聞 2008年4月号