先週 伊丹十三監督の映画「タンポポ」を観た。たぶん これは 私にとって 5回目の鑑賞となる。別にこの映画が大好きでたまらない、ということではない。「タンポポ」を僕のバイブルだ!と崇拝するハビーのせい。5回どころか、僕は最低10回は観てるよ、と自慢する。
こう言っちゃ失礼かもしれないけど、そんなに繰り返し観なきゃいけないほど、すごい映画なのか、と私は思うわけ。それを言うと「Are you kidding??!」と返ってくる。
君は日本人なのに あの映画の素晴らしさが解らないのかいっ!?
なんともダメなラーメン屋の女主人が、ラーメンに厳しいトラックの運ちゃんの特訓により、行列のできる人気のラーメン屋になる。よくあるストーリーだと思うんだけど。私には「奥の深さ」が見えてこない。しかも、メインの宮本信子のラーメン屋サクセスストーリーが展開されるそのサイドで、ちょこちょこと食にまつわるエピソードが差し込まれる関係性は。得に あの役所広司演じる白いスーツの男の存在は何なの。
「タンポポ」はね、人間の原点を描いているんだよ。ハビーの演説が始まる。終幕で出てくる 赤ちゃんが、夢中で母親のおっぱいにしゃぶりついているあの映像のように、食は人間が産まれて 一番最初に求める欲求なんだよ。そして人間のその食に対する執着。ただ生きるために食べているわけじゃない。口に入る多様な形、色、食感、温度、そしてその味が 様々な刺激となって脳に伝わり、いくつと異なる感覚の満足感を作り出すんだ。その満足感が幸福感。それを求めて人間は食べ続ける、そして より良いものを、もっとすごいものを、と探究し続ける。コントロール不可能な本能なんだよ。
食べることで、なんらかのホルモンが分泌され、ポジティブな作用が起こる、ということよね。確かに、デートに食事は付き物だし、腹が減っては戦はできぬ、とも言うし、取り調べを受けている犯人には 必ずカツ丼が出される(古い)。
得にあの 老人がラーメンの正しい食べ方を教えるシーンは、人間の欲望の象徴だよ。ハビーの熱論は続く。ダシがどうだとか、麺がどうだとか、温度がどうだとか、妥協しないのは 最高の快感を得るための大事な準備段階なんだ。そして、そうやってこだわった食材がラーメンの器の中で総括される。欲望を満たす瞬間がついに来たわけ。この老人の言う、正しい食べ方というのは、ゆっくりじっくり120%に快感を味わうための 大事なステップなんだ。立ち上がる湯気の匂いを嗅いだ瞬間から、最後の一滴のスープを飲みほすまで、一分の無駄があってはならいない。人間は食欲というエゴを満足させるために夢中になる生き物であることを、描いているんだよ。そしてそれが、正に生命の糧であることを!
そこまで解釈しますか。
まあ、確かに、メインのストーリーの間に差し込まれる一見関連性のないエピソードや、白いスーツの男のシーン達は、その欲望に夢中になっている人間像を映し出している。
それにしても、数人の日本人の友達が皆 よくわからん、と言うところに ハビーのこの「タンポポ」絶賛状態。Wikipediaで「タンポポ」を調べてみると、「公開・反響」の所に、「本作は興行的には成功しなかったが、一部のマニアックなファンや日本国外からの支持は高かった。日本国外での反響は特に高く、アメリカでの興行成績は、邦画部門2番目となっている。この映画を見て日本通になったり、あるいはラーメン店を開業する外国人も出現した。」とあった。
ハビーは色々言うけれど、単純に 日本人にしてみれば珍しくもないラーメン文化が、外国人には珍しい、ということじゃないの?
初めてこの映画を観たた後、すっかり感化されて、乗り換えで一時的に降りた日本の空港で、この老人の説明する通りに ラーメンを食べたというハビー。おそらく、多くの外国人が 同じことをしただろう。
食べ物の文化は世界を渡り歩いている。ラーメンだってもともと中国から来た物。それを「日本のラーメン」に進化させた日本人。そして未だ究極を求める野心は続き、「最高のラーメン」の形は変わっていってる。そして 影響を受けた外国人によって また他の国々へと渡って行く。
人間の食欲ってすごい。伊丹十三は、「タンポポ」でそれを伝えたかったのか。
幕開けで 白いスーツの男が、死ぬ間際に見る走馬灯を楽しみにしている、と言う。 一生に起こった事が、映画のように流れ始めるというそれを 邪魔されたくないと。10回以上も「タンポポ」を観ているハビーは、「タンポポ」を観ている自分という場面が、必ず一回は現れることだろう。
Kiki
Posted on 夕焼け新聞 2013年9月号