Sunday, June 5, 2011

おいしい話 No. 18「夏の匂い」

最近ハビーの両親が、地元の農家と契約して ある金額を前払いし、毎週 その週に出荷されたばかりの旬の野菜を用意してもらう、ということを始めたらしく、毎週新鮮な野菜が食べれると喜んでいる。
この両親、特別太っているわけでもないけど 自身で気にしているらしく、二人そろって ダイエットプログラムに加入したりしていた。今では大量の野菜が毎週用意されるので、それらを無駄にしないためにも せっせと否が追うにも野菜を食べなきゃいけない状況になっている。
毎週どんな野菜が詰められているかわからないので、福袋のような楽しみがあるが、毎日料理のバラエティーを考えるのに頭を使うことになる。いつもお決まりの野菜炒めでは そのうち「もう野菜なんか見たくない」、という状況になりかねない。
先日私たちが訪ねた日も ちょうどこの契約農家から 取れたての とうもろこし、キャベツ、桃などをもらってきたばかりだった。パパがチキンのバーベキューを作り(アメリカ人の旦那はなぜかいつもBBQ係り)、ママがキャベツのサラダを作った。私だったらキューピーマヨネーズで和えて終わりそうなところを、賢いママは 料理の本を見て新しいドレッシングに挑戦。そして もう一つのサイドディッシュとして 茹でたとうもろこしが添えられた。

アメリカではしっかり野菜としての認識があるとうもろこしであるが、私の中のとうもろこしは夏の「おやつ」であって 夕食の一品としては考えたことなかった。始めてアメリカ人一家の夕食に招かれた時、お皿にゴロンと横たわる茹でたとうもろこしにナイフで取ったバターを塗りまくり、塩コショウを掛けてかぶりつく家族の人達を見て密かにカルチャーショックを受けたもんだ。
異国で長いこと生き抜くには、その国のいろんな習慣に身を投じるしかなく、倣ってやっていくうちに 自然にそれが馴染んでくるもんで、私もバターをしっかりセメントのように塗り付けて食べられるようになった。

その夕食の席で、とうもろこしにかぶりついた時、そのはじける甘い汁に 私の意識が遠い遠い昔へと回想されていった。
私の子供の頃は こんな改良に改良を重ねられたような甘いとうもろこしはなかった。近所のとうもろこし畑から刈り取られ、道端の無人八百屋で売られていたとうもろこしは 実が異様に詰まっており、砂糖のような甘さのまったくない代物だった。なぜ夏祭りで売られている焼きとうもろこしと甘さが違うのだろう、と小学生の私は不思議でならなかった。
学校から帰ると 母親が大量に茹でたとうもろこしが ちゃぶ台におかれている。その甘みのない田舎のとうもろこしがそれほど好物ではなかったが、それしかおやつとして置かれてない時は 仕方なく食べるしかなかった。ハエよけにかぶせられた手拭いをとると、まっ黄色にぷりぷり身をはったとうもろこしから どくとくの夏の匂いがただよった。それを一つ掴んで 縁側に座り、涼みながら食べたもんだ。
うちの母親のお陰できゅうりやトマトも野菜というよりも軽いスナックである、という認識が小さい脳みそに植えつけられた。さっと洗ったきゅうりやトマトも塩を付けて丸ごとかぶりついた。クッキーやショートケーキなどの変わりに 桃やイチゴ、イチジク、琵琶などが笊に盛られて台所に置かれていた。
お腹が痛くなるまで食べたスイカも含め、それらの一つ一つから むせ返るほと放たれていた匂いが、私の子供の頃の 夏の思い出のシーンを作り上げているような気がする。

そんな回想のせいで、猛暑が続いた今年のポートランドだけど、もっと夏を感じたくなって、自分でもとうもろこしを茹でてみた。足をぶらぶらさせて座る縁側はないけれど、ポーチにある椅子に腰をおろし、目を閉じてそっと匂いをかいでみた。
昔は オーガニックなんてファンシーな言葉はなかったが、普通にオーガニックの野菜が笊盛りで安く売られていたんだよね。今 オーガニック野菜がスーパーマーケットに再来しているけれども、値段がファンシー過ぎていけていない。トマトが1個2ドルするのはどうなんだろう。あの胴周りの太いきゅうりをそのままかぶりつきたいとは思わないしなあ。それより何より、あの独特な野菜の匂いが消えてしまったと思うのは 気のせいだろうか。それとも、自分が昔のように野菜と密着した生活をしなくなっているってことなのか。
パパとママが契約した農家から送られてくる福袋の中には、きっと夏の匂いが沢山詰まっていることだろう。



Kiki


Posted on 夕焼け新聞 2008年9月号

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