Sunday, March 6, 2016

おいしい話 No. 106 「3日断食」

断食をしようと思い立った。
本当は去年の日本旅行の後にやる予定を立てていたけど、こっちに戻って来たらすぐ、Thanksgiving, Christmas, 忘年会、新年会と続き、断食とか、デトックスとかやっている場合ではなかった。
この間、こういったパーティーを 身体のクレンジングより優先してしまった意志の弱い私だったわけだけど、パーティーシーズンの終わった2月に入ると、元々の思いがむくむくと蘇って来た。そろそろ誘惑、Destruction無しで、やれるかも。いや、そいういう事言ってちゃ いつまでも実行できん! 食事会や飲み会の誘いが来ても、きっぱり断れる自分でなければならぬ。
という事で、いきなり「来週から3日間断食するから」と宣言した。
人生初の本格断食を実行する。デトックスとクレンジング、内臓機能のリセット、細胞本来の活動をフルに行ってもらう機会を身体に与える期間。
この間、口にするものは、ブレンダーでなく、ジューサーにかけた野菜ジュース、水、お茶、デトックス効果のあるハーブティー、そして昆布、椎茸、鰹節でとったダシ汁のみ。酒類、コーヒー、乳製品、固形食物を一切断つ。

3日間で一番辛かったのは 初日。
いつもの食事が入って来ないので、お腹が狂って暴れている。
そこをひっきりなしに液体を流し込み、誤魔化す。
野菜ジュースは液体ではあるけど、お腹に重みを与えるので、お茶や水と違う満足感が得られる。「晩御飯」と称したダシ汁も 味付けをしていないので めちゃプレーンではあるが、ダシ汁の自然の塩分のせいか、これも満足感が得られる。

しかし、空腹感よりも何よりも、初日の午後から起き始めた頭痛に一番やられた。
金槌で頭を打たれているような痛み。まったく予期していなかったが、カフェイン欠乏症の症状だと言われた。
「うそーっ! たった1日コーヒーを飲むのを止めただけで???」
カフェインの中毒性の強さ、スゴすぎ、、、。。
確かに毎朝、一杯のコーヒーは欠かさないけど、一杯以上飲むことはない。それなのに、今日始めて飲むのを止めただけで もうこの頭痛??
123杯コーヒーを飲むという友人がコーヒーを断ったら 5日ほど頭痛が治まらず、今はコーヒーを飲むのが怖い、と言っていたが、その気持ち、わかる!と思った。断食終了後の私、もう毎日飲んでないもんね。 カフェイン、なかなか強烈なシロモノですわ。
夜は早々に就寝し、空腹とDealする時間をカット。

頭痛が2日目も続いていたら、と心配したけど、一晩寝たら次の日には引いていた。これは11杯と23杯の違いなのだろうか。

中日、昨日のうるさい腹もあきらめて落ち着き、気持ちも昨日より楽。
今日のランチは Kureの野菜ジュース。「ボクも一緒にやるっ!」と断食に参加したハビーから、買い物に行って野菜を追加したというメッセージが入る。喜んで送ってきたリストにハバネロペッパーが入っている。今日の夕食ジュースは ピリ辛のようだわ。それって、いいのかい?
取り敢えず、この中日の調子をみると、3日間やりきれそうだわ。

1週間の水断食を何回かやった事のあるハビーが言うには、コーヒー断ちの頭痛は当たり前。そのうち自分の体臭に気付く。そして だんだんハイになっていく。私の3日断食じゃあ たいした影響はないだろうと思ったが、ミニハイな感じはあるかも。

断食3日目、最終日。思ってたより 調子はいい。
3日目となると、辛くて ヨレヨレになっているかと思ったけど、そうでもなかった。空腹で自分自身が狂って暴れ出す、という事もなかったし、わりと軽く乗り越えられた。やっぱり野菜ジュースの効果かしら。
今朝早めに起きて作ったジュース、Mason jar 2瓶を持って会社に行き、午前と午後とで 1瓶づつ飲んだ。それから 緑茶とハーブティーを飲み、後は水で埋めていく。
仕事の後、LA Fitnessのジャグジーで 30分ほど入浴。最後のデトックス作業。
なかなかスッキリした。いつもは この後サウナにも入るところだけど、今日はやめておく。ぶっ倒れそうな気がするから。

明日から 普通の食事にゆっくり戻していく。柔らかい物から 徐々に。
ダシ汁を使って 白米、麦半々のおかゆを作った。あと生姜も入れて。これが私の朝食、昼食となる。夜はアボカドをワカモレ風につぶしたもの。最初のFat摂取。

断食には身体のシステムのデトックスクレンジングをする、という目的があるけれど、それと同時にそれを全うする強い精神力も問われる。「やりたい」「やりたい」と言っているだけでなく、本当に実行し、完全遂行する事が 断食の真髄なのだと確信した。
とにかく ワタクシ、
Mission accomplished



Posted on 夕焼け新聞 2016年3月号

おいしい話 No. 105 「さよなら、Spike」

Spikeが天国に行った。
もうすぐ18歳になるおばあちゃんだったけど、ずーっと赤ちゃんみたいな顔をした猫だった。
タフで強くて、こっけいで、愛らしかったSpike
猫好きではない私は、ハビーが実家からうちに引き取りたい、と言った時は 非常に躊躇した。でも、いざやって来て一緒に住みだすと、いつの間にか、写真を撮りまくり、人の迷惑も考えずに「可愛いだろう」と送りまくる親バカになっていた。
我が子が可愛いいと思えるのは 人間も動物も同じなんだと知った。

もう老猫で、最近の動向はおかしかった。確実に最後が近づいてきている感じだった。
ご飯も偏食になり、食欲も無くなり、寝る場所も転々と変え、異様にCuddlyになり、変な座り方して遠くを見つめてたり。

昨日は得におかしかった。
外に出たがり、一旦外に出るとなかなか帰ってこない。いつもなら小心者ぐらいすぐに家に舞い戻って来ていたのに。
そんな、なかなか帰って来ないというパターンが朝、昼、と続いた。
夜もまた出たがった。
出してやると 12時近くになっても戻ってこない。
子供の頃飼っていた犬が病気をして、その後突然いなくなった時、両親が、動物は死ぬ時には、飼い主にその姿を見せないんだよ。一人で死ぬ為にどこかへそっといなくなってしまうんだよ、と言った。その話を思い出して怖くなった。
このままSpikeは帰ってこないんじゃないかと。

でもSpikeは戻ってきた。
戻ってくるなり、床にコロンと寝転がり、じっと動かない。
私は心配で、居間のカウチに毛布を持ってきて、そこで寝る事にした。もしSpikeに異変が起きたらすぐわかるようにと。

夜中の3時頃、苦しそうな声を上げるSpikeに目が覚めた。
もうぐったりしている。目ももうろうとしている。
急いで救急動物病院に電話したら すぐに連れて来なさいという。
パジャマの上からセーターを被り、Spikeをキャリーバッグに入れ 外に飛び出す。
車をUnlockしようとRemoteのカギを押すと、アラームが鳴り出す。Shit!!
携帯のナビゲーションをスタートして車を走らせる。
その間、私はずっとSpikeに声をかけていた。
Hang on Spike!  Hang on!
時々かすれた声でSpikeが答える。Meow...   よし、まだ間に合う。Hang on Spike!  Meow..
途中携帯のバッテリーが切れて ナビが消える!! Shit Shit Shit!
Thank God、携帯のカバーにはチャージャーがついている。それをオンにして再起動を待つ。
その間、コンタクトレンズを入れる時間を惜しみ、メガネのまま飛び出した私は ストリートのサインがよく見えない。
ナビが再起動するまで、自分で進んで行こうとするんだけど、とにかくサインが読めないから 違う門を曲がったりして、もうオタオタ。
やっとナビがまた起動し始め、病院に到着。駐車禁止の標示の前に逆方向で車を停め、病院の入り口に走り、ドアを叩く。ガラス張りだったから さっき電話で応対してくれた女性が受付カウンターから私を見つけ、入口のドアまで駆けつけてくれた。
そのままドクターの手で治療室へ。
私は小さい個室の待合室に案内された。

なんでこういう時、Hubbyは撮影の仕事でいないわけ?
なんで私一人で Dealしているわけ?

ドクターが部屋に入ってきて 状況を教えてくれた。
Spikeの心臓は止まったけど、CPRを与えたら息を戻した。CPRを継続すれば Spikeは少しの間長生きできるかもしれないが、それも時間の問題。もう年だし、薬を与えて 静かに痛みもなく死なせてあげる、というオプションもある、と説明してくれた。
私は それを承諾した。
この日が来る事はわかっていた。おばあちゃんのSpike
今まで頑張ったよ。

私が独りで待っている待合室に赤いブランケットで包んだSpikeを連れて来てくれた。
最後のお別れの時間を与えてくれた。
私はSpikeを抱きしめ ただただ泣きじゃくった。
ブランケットの中で眠るSpikeは やっぱり赤ちゃんみたいに 可愛く 愛おしい顔をしていた。
Thank you, Spike
I love you, Spike
You did very well
You lived a really happy life
私は泣きじゃくりながら ずっとSpikeに話しかけた。
二人きりで、小さな部屋で。

涙が止まらなかった。
病院の人は優しく、私が気が済むまで泣かせてくれた。ずっとドアの外で待っていてくれた。

朝早くHubbyが仕事から帰ってきた。家に入るなり泣き崩れた。
ずっと二人で一日中泣き続けた。
Hubby18歳の時から飼い出したSpikeSpikeは文字通り彼のBabyだった。

キッチンには Spikeが口をつけなかったCat Foodが ボールに残っている。
大好きだったTreatも マットに転がっている。

Spikeがこの世から消えた。
私達の生活からいなくなった。
彼女の人生を終えて、天国に行った。

昨日私が 本を声を出して読んでいると 私の傍に来て横になり、私の声を、本のストーリーをじっと聞いていたSpike
彼女も自然のサイクルの中に戻ったんだね。
土にNourishしてもらい、そして土に返る。
この変わる事のない自然のサイクルを、Spikeの死によって また 実感したよ。

ありがとう Spike
さよなら Spike




Posted on 夕焼け新聞 2016年2月号

おいしい話 No. 104「家族への思い」

うちに来る日本の週刊誌を読んでいると、認知症に関する記事が多い。ほとんど何らかの形で毎週のように取り上げている。現代の日本では、認知症は深刻な国民の健康問題なのだということが 伺える。
そして 友人や知人から両親や親戚の人などが、認知症と診断された、またはその気配あり、などという話を聞くと 週刊誌の記事が とても身近な事として感じる。ここで、海外に住んでいる日本人の私達が、日本にいる家族、特に両親が認知症やその他の病気になった時、看護に関してどういう対応をすべきか、深刻な悩みとなるはず。もし私の両親が生きていたら、そして もし看護を必要とする病気になっていたら、ここにいる私はどういう選択をするだろう、と自分に立場を置き換えててみたりする。
3年前に郷里に帰った時、伯母を訪ねた。この伯母は母の姉で、私が物心付いた時から独身で一人暮らしをしていた。歩いて行ける距離に住んでいた伯母の家に、私は子供のころから一人でひょこっと訪ねては、テレビを見て、お菓子を食べて、たまに晩御飯も食べて帰ってくる、という事をしょっちゅうやっていた。定年までお茶の会社で終身雇用を全うし、お花とお茶を嗜めていた。着物が好きで、私の成人式用の着物も母に付いて来てくれ、アドバイスをくれたり、結婚式に呼ばれる度に、着付けをしてくれたりした。嫁入り前の女性なら お茶やお花の最低の作法ぐらい知っておく必要があるという母の押しで、20代になってからは 伯母の家に特別に作られたお茶室で お茶のお稽古を受け、活花を習った。
私はある時、気が付いた。私は伯母とこうやって交流を続けていたのは、子供ながらに、独り身の彼女を気遣っていたところがあるのだと。
伯母はよくお花の展覧会や、カジュアルなお茶会に連れて行ってくれた。その後、一緒にお茶をしたり、ご飯を食べたりするのが、彼女にとっての楽しみである事を知っていた。私が大好きなお寿司やさんにも、年に1度、連れて行ってくれた。それは 私がアメリカに移って、時々帰省しても継続される行事だった。
数年前、その伯母が転んだと兄から知らせを受けた。その時に足腰を痛め、そこから元気だった伯母が 見る見る健康状態を失って行った。
3年前に帰った時、伯母の家は すっかりベッドが中心の部屋に模様替えされていた。あの燐としていたお茶室も、物置に変わっていた。
伯母はデイケアーのサービスを受けるようになっていた。ヘルパーさんに 週に何回か来てもらい、食事を作ってもらい、お風呂に入れてもらい、掃除、洗濯をしてもらう。伯母はすっかり年老いていた。あまりの変わりように 私は ショックを受けた。それでも 伯母は私とお寿司を食べに行く事を楽しみにしていて、ゆっくり時間を掛けながら着替えをし、ソックスを履いた。タクシーを伯母の家まで呼び、杖を突きながら歩く伯母を支え、一緒に出掛けた。
3年ぶりに帰った今年も、伯母を訪ねた。伯母はほぼ寝たきりの状態になっていた。「よく帰って来たね。ごめんね、おばちゃんねえ もう一緒にお寿司行けないよ。」なんとか起き上がり、クッションを背にもたれかけ、ベッドに座る伯母は とても小さく見えた。「これで おばちゃんの分も美味しいお寿司を食べておいで。」小袋に入った1万円札をそっと手渡してくれた。
動けなくなるってこんなに 人間の身体を弱くしてしまうんだ。健康に気を付けていても事故で身体を痛めたら、年老いた身体が元の状態に戻るのは容易ではない。これで認知症が同時に発生したりしたら、伯母は独りでどうやって生きていくのだろう。伯母に対してこんな風に気がとがめるのであるから、実の両親との間だと どんなに辛いだろう。
そんな想像をして心を痛めている間、伯母はヘルパーさんが用意してくれたカレーライスを ぺろりと全部平らげた。薬も、どの薬を食後に飲んで、どの薬を食間に飲んで、と説明してくれる。週の何曜日の何時から どのヘルパーさんが来てくれる。先週どのヘルパーがさんが来てくれて、何をしてくれたか、洗濯物を箪笥のどの引き出しに入れてくれたか、など、すごい記憶力を披露するではないか。身体の衰えとは別に、頭はとてもしっかりしている。私の方がよっぽどヒドイ。長年飲んで来た抹茶のせいか?(週刊誌の記事に、お茶が認知症に良いと書いてあった。)少し安心した。
「毎年クリスマスカードを送ってくれるよね」と、伯母が言った。きっと英語の住所を書けないから 伯母から返事が来た事は一度も無く、もう今年はいいかな、なんて思っていた所に、実はとても楽しみにしている事を 始めて知った。私はまたアメリカに戻り、今度は何年後に帰省できるかわからない。でも 伯母が元気な限り、私からだと認知できる限り、クリスマスカードを送り続けなくては、それが遠くに暮らしている今の私が 唯一出来るケアだと思った。




Posted on 夕焼け新聞 2016年1月号

おいしい話 No. 103「裸で知る文化」

結婚して10年目にして、初めてハビーが嫁の国 日本に降りたった。
「日本には何回も行った事がある」と言い張るヤツだが、全て成田空港止まり。成田空港から外に足を踏み出した事はなかった。
姉夫妻に迎えに来てもらい、空港のゲートを出る際に、「Finally!」と歓声をあげた。これで正式に「日本に行った事がある」と人に言える。

結婚10年といえども、やはりこれは国際結婚。生まれ育った文化や価値観の違いはどうこう言っても日々の中で出て来る。私はアメリカ側に来ている方で、それなりにアメリカの文化、人々の考え方、習慣なんか学んで来たし、それに順応するようにしてきた。でも それを夫婦の片方しかしないって、全く不公平でしょ、と常日頃思っていた。「なかなか金銭的に余裕がなくて」という理由も10年経つと そろそろいい加減にしようぜ、となってくる。嫁がどこから来ているのか、どういう環境の中で育ってきたのか、なぜ風呂では スポンジでなく手ぬぐいを使っているのか。ダンナとして、知る必要がある。

という事で、彼の日本着地後第一の使命は 温泉。銭湯。健康ランド。これは彼への使命というよりも、私がお風呂に行きたいから、奴にも頑張ってチャレンジしてもらいましょう、という意である。
アメリカの浅い風呂桶にお湯を張ってお風呂に入るのは容易でない。肩まで浸かろうとすると、棺桶に入っているような体制になり、そのうち頭や曲がった首が痛くなって リラックスになっているのかわからなくなる。そうこうしているうちに、お湯が冷たくなってくるのだ。
このフラストレーションをハビーにぶつける。将来家を買ったら、まず最初に風呂場のリモデルするからね。風呂桶は大きくて深いのに。洗い場は風呂桶の外、中じゃないよ。トイレは別。そして風呂場自体のスペースをゆったりと大きく取る。ハビーにはイメージできないらしい。もう、まったくぅー、とペンと紙をとり、風呂場の絵を描いて見せる。それでも 今ひとつピンと来ていない。それでは、実体験してもらいましょう。

まずは 日本に着いたその夜に、姉の家のお風呂で 公衆に出る前のカンタンなトレーニング。脱衣所で服を脱ぎ、洗いタオルを持って風呂場に入り、洗い場のこの椅子に座り、まずは体を洗う。きれいに流した後に湯船に浸かる。桶で洗いタオルを濯いでしっかり絞り、頭に乗せる(オプション)。上がる時は、絞った洗いタオルで軽く体の水気をふき取り、脱衣所に戻ってそこでバスタオルを使用。
よし、いける!  あとはお義兄さんにまかせたっ。
翌日、健康ランドに向けて出発。女湯、男湯の入り口の前で、じゃあ、後で、と別れる。「あ、30分後?」とお義兄さんが確認を入れる。「えええー、30分なわけないじゃん。1時間よ。」「え、、?」「うちのダンナ よろしくねー。」
私と姉は露天で半身浴しながら ぺちゃぺちゃと取り留めもなく喋り続け、気が付いたら本当に1時間経っていた。英語が全くダメなお義兄さんと、日本語が全くダメなハビーは 今どういう風に時間を過ごし、私達を待っているのだろうと思うと気の毒になってきて、私達も切り上げる事にした。
やっぱり先に出ていた男どもは 食堂の座敷にお茶を飲みながら座っていた。お互いがスマホを見せ合って、クスクスと笑い合っている。翻訳のアプリを使って会話をしていたのだ。文明の開化。裸の付き合いとテクノロジー。これで 正に人類は兄弟になり得る。
そう安心した私は、旅の行く先々でハビーをお風呂に連れ回した。
地元では 男友達数人と一緒に健康ランドへ、実家では兄と甥っ子達と健康ランドへ、各地の友達の家に泊めさせてもらった時は、日本式お風呂に、そして 漏れなく温泉場へも。温泉では夕食前に入って、次の日の朝食前にも入るんだよ、と私の温泉の入り方を一般常識のように教える。

私の友人や家族といきなり 素っ裸でご対面の挨拶をしたハビー。背中の流し合いまではしていないにしても、何か触れるものがあったに違いない。そして少しでも アタシのルーツを感じてくれていたら、嬉しい。

極め付けは京都の銭湯。もうベタの、昔からある「近所の銭湯」。番台には オッチャンが座っている。来ている客は殆ど年寄り軍団で、シャンプーやコンディショナーが入った常連のマイ洗面桶が棚にずらりと保管されている。
ハビーに 手拭いを渡し、グッドラックと言って、別れる。「神田川」ポイね。どっちが早く出て来るのかしらん。

もうここまで来ると、ハビーもお風呂ツウとなっている。「風呂はいいねー」なんて、お風呂上りのビールを美味そうにグビグビと飲む。「よし、僕達の家は 日本式お風呂にしよう!」「イエスッ!」

やっと わかってもらえたようだわ。



Posted on 夕焼け新聞 2015年12月号