死刑の制度を持つべきか、持たぬべきか。中絶を許していいのか許さぬべきか。脳死を「死亡」と判定できるのか、できないのか。
これらは、アメリカの学校で与えられた Paperやクラス内討論のテーマ。小さい頃から 教育課程の中で、自分の意見を持つ事に慣れているこちらの学生達からは ああだ、こうだ、とためらうこともなく発言が飛び交う。「私はこう思う」という言葉が自信を持って出てくる。
その中で、日本で 先生が黒板に書く事柄をノートに丸写ししたり、先生のレクチャーをただ聴いているだけの、受身の授業を受けてきたせいか、自分の意見が沸いてこない事に困り果てた。こういうシリアスな社会問題に対して生徒同士が討論を交わし、反対意見を持つ人に対して 自分の意見が納得されるよう説明する。そんな討論を行う事やPaperを書く事などなまったくなかった。したがって、ただ中間地点に立ったまま どっちにも転べずにいた。
そんな意見のない私の脳みそが ぴくっと反応したことがある。それは、昔クラスでワシントン州のMakah族が その生活であり、文化である捕鯨に対して非難を受け、年間に漁ができる数を制限されるようになった、という事を学んだ時。日本も世界から圧力を受け、捕鯨量の制限をうけた。イルカの漁をする漁村も強くバッシングを受けた。捕獲量が多すぎると 海の自然のサイクルを崩すことになり、その種の絶滅にもなる、だから保護される必要がある、という理由はよくわかる。でも、それらの攻撃の目は、ステーキやハンバーガー用の牛や、フライドチキン用の鶏や、Thanksgiving に大量に店頭に並ぶ七面鳥や、ベーコンとなる豚の大量スローターには向けられない。Politically incorrectだといってVegetarianとなってサポートしている人はいるけれど、世界的の攻撃の的になっている州や村はない。なぜ?これらの動物は、繁殖力があるから?鯨やイルカと違って、Intelligentでないから?
そして、ふと思った。昔から鯨を取ることで生計を立ててきたMakah族の暮らしはどうなるのだろう。一本の丸太から作ったボートで儀式をもって行う捕鯨。一頭の鯨から、食用の肉だけでなく、脂や皮や骨などを使い、あらゆるProductsを作り出す。そうやって家族を養い、その文化を育てて来た人達はどうなるのだろう。そんな風にQuestionしないではいられなかった。
先日、ポートランドのローカルラジオ局が中国の鮫漁に対して、討論を交わしているのを聞いた時も、同じ疑問が浮かんできた。ラジオのマイクに向かってしゃべっている人達は、高価なふかひれスープの食材として高値で売れる市場があるため、中国が鮫の大量捕獲を行っている、ということに遺憾の意を表している。ヒレだけを切り落とし、胴体はそのまま海に捨てる、そんな残酷な漁を止めるべきだと訴えている。
そして、この人達が ポートランドで一番有名な中華料理店の名前を出し、この店からふかひれスープのメニューを除去するべきだ、と声を張り上げているのを聞いた時は、驚いた。街で一番有名だからこそ、ふかひれスープのメニューを持つすべての中華料理屋の先頭に立ち、見本となって欲しい、そうすると他の店も見習うようになり、その一品をメニューから抹殺することができるだろう、となんとも勝手なLogicを言っている。そうすると、鮫をCruelな漁から救うことができるだろう、と。鮫漁が正当か正当でないかはわからないけれど、こうやって一個人に対し、公の場で圧力をかけるのはどうなのだろうと思った。
結婚式など祝い事の席には欠かせない一品として、成功や、裕福であることのシンボルとして、中国の長い歴史の中で 人々の生活に息づいてきたひとつの食文化。名指しをされたその店も、そういうCultural Backgroundの元、当たり前のようにその品を出しているのだ。
それぞれの国や、街や、村には、大昔から受け継がれてきたそれぞれの文化や習慣がある。その中で独自の価値観を持って人々は育つ。すべては、当たり前で自然なこと。それを違う文化や習慣の中で、違う価値観を持った人達が、いちがいに「あなたは間違っている」と断言していいものなのだろうか。
こういう問題はとっても複雑で簡単にジャッジできる事ではないけれど、他文化に対する偏見や主観的な見方がだけで判断してほしくないと思う。
どうせフェイクのふかひれスープしか食べたことのない私は、その一品がなくなることに嘆きはしないが、いつか ふかひれスープが 語り継がれるだけの 幻のスープになる日が来るのだろうか、と思いをはせる。
Kiki
Posted on 夕焼け新聞 2011年6月号
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